私の前を、ボサボサとモアモアが歩いている。私は後を追うようにそれを見ている。
ボサボサとモアモアの歩く速度は私よりも若干遅く、けれども私はボサボサとモアモアを追い抜くほど速くは歩きたくない。疲れてはいないが、精神活動を活発にする気力も持ち合わせてはいない。また、ボサボサとモアモアに余計な気を遣われたくもなかった。
歩道の左側は片道4車線の幹線道路であり、私たち(!)が歩いている道幅も狭くはないがボサボサとモアモアは間隔をあけて歩いていたので、私は左右どちらかの側からそれを抜くことはできなかった。
空は暗く、右側のラーメン店は店内店外に明かりが灯っている。その隣の喫茶店はまもなく閉店の時間だと思われ、シャッターは半分ほど降りていた。先の花屋でも閉店の準備に勤しんでいる娘の姿があり、いや娘というには少々年端を重ねているだろうか、店の明かりは落ちつつあった。
歩道の左側には街路樹が並んでいる。紅葉を終えた葉は歩道に落ち、まだ青い緑は高いところで電線に絡まりながら街灯に照らされている。
車道には多くのライトが向かってきては過ぎ行き、しかしそれほど頻繁ではなかったのでどこかの信号が青になって一寸、このように車が走るのだろう。
そうでない時の静けさは、車道の向かいを歩く酔客の声を聞かせてくれる。
ボサボサとモアモアも先刻から何らかの言葉を交していたが、私はその音に関心はない。それは私の理解することができる言葉とは異なるものだったからだ。それは不快な音声だった。
それゆえに私が理解できた酔客の言葉に、その内容はここに記述するには下劣だが、私は多少の温かさを感た。
私は科学者であり、観察を日常の趣としている。ただし遺伝子を扱う生物学や天体を観測するといった学問ではなく、私が観察しているのは人間である。
趣味に「人間観察」と記している記述を見かけることがあるが、あれは全くナンセンスだ。あんなものは私に言わせれば珍しいものが好きなだけであり、それは知の結集とは見なされない。
それは、その行為が反省することを放棄しているからだ。
けれどもこんな話はどうでもいい。いま問題は、私の前にボサボサとモアモアが存在することに集中する。
そうして歩いていると私は、ボサボサとモアモアの間にあるフサフサの存在に気がついた。
フサフサは2本の足で歩き、人間の子供の形をしていた。他の哺乳類は生まれた時の形を保ちながら成長していくが、人間は育つに従い頭と、胴体や四肢との比率が異なってくる。フサフサを在従の形のまま大きくすると私の知識の及ばない生物に成り得、そのことからフサフサはまだ未完成な人間だと思われた。それはボサボサと手をつないで歩いていた。
ボササはフサフサの方を見て話しかけるが、モアモアはフサフサのことを気にかけない様子であった。こういったことも私の目に入ってきて、やはり私の神経はボサボサとモアモアに集中する。
そうすると、右側には私の嫌いな建物がある。
この建物の1階はオープンウィンドウのテナントであるが、昼間、歩道に面したガラス張りには書棚が置かれ中は覗けない。見ようと思えば書棚の隙間から覗けるが、脇の入り口に警備員が立っていて、そうまじまじと中をうかがうことはできない。
今時分、警備員の姿はないがウィンドウも書棚すら隠すようにシャッターが降ろされているので、やはり中を見ることはできない。私は苛立つ。中を知ることのできない苛立ちではなく、知られることを拒否するこの建物に対し、私はこのビルを通るたびにこの苛立ちから開放されることは許されない。そのビルの前をボサボサとモアモア、フサフサが通り、私はその後を追っている。
先に見えるコンビニエンスストアの前には横断歩道があり、その先には鉄道のターミナル駅の明かりが見えるはずだ。ボサボサとフサフサの観察は一応終えたので、私は一刻も早くこの社会からの離脱を望んだ。
そのことは私にコンビニの前の横断歩道を渡ることを決意させた。私はこのターミナル駅を利用し、いつもはこの横断歩道を渡るのではなく、1区画先にある車道の地下を行く通路を利用している。駅周辺の歓楽街の喧騒が多分に私の精神を害するからだ。
しかしこの時の私は、歓楽街の喧騒よりもボサボサとモアモアからの精神的な開放を要求した。
コンビニの前の横断歩道、私が渡る信号は赤であった。先を行くボサボサとモアモア、フサフサはその信号で体を左に向け静止した。この時私の思考は突如として一方の極へ反応した。
私はボサボサとフサフサの間に分け入ると、フサフサとつないでいるボサボサの手を激しくほどき、フサフサの上腕を右手で掴むとその身は軽く、車のライトの群れへ投げた。
けたたましい音が聞こえたがその音も走り去り、私は信号が変わった横断歩道を歩き始めた。私の背後ではボサボサとモアモアらしい喧騒が聞こえたが、それは私が言語的に理解できる音声ではなかった。